仏教の開祖釈迦

釈迦は別名、
釈迦牟尼世尊、釈迦牟尼仏陀、釈迦牟尼仏、釈迦牟尼如来、釈尊、釈迦尊、釈迦仏、釈迦如来、世尊、仏陀、ブッダ、如来とも呼ばれています。
紀元前5世紀頃に生誕。
釈迦は日常の中でこの世の無常を感じ取っていた。
その後、出家を果たして長い苦行にその身を投じるが、苦行からは真の悟りを得ることはできなかった。
その後、49日間の観相に入り、12月8日の明星と共についに悟りを得られました。
仏教の始まりです。

禅宗の開祖菩提達磨

釈迦より正法を受け継がれた菩提達磨は、釈迦より数えて28代目の祖師です。
インドから中国に渡り嵩山少林寺にて面壁九年の坐禅を修行され、「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」 の宗旨を標榜され、禅宗の初祖と仰がれています。
慧可(禅宗の第二祖)を弟子に入れ、その後中国全土へ禅宗を広められた。

臨済宗

臨済宗は、中国禅宗五家(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)のひとつで、その名の由来である唐の臨済義玄を宗祖 としています。後に宋の時代の中国に渡り臨済宗を学んだ明菴栄西にて、鎌倉時代の日本へ臨済宗を伝えられ、 明菴栄西は、日本での臨済宗の開祖となられました。
臨済宗は、「一器の水を一器へ」移すがごとく伝法された一流の正法を教えとし、我々に本来そなわる尊厳で純粋 な人間性(仏性[ぶっしょう])を、坐禅・公案・読経・作務などの修行を通して、自覚(見性)することを旨とする宗派です。
宗祖臨済禅師には、「赤肉団上[しゃくにくだんじょう] に一無位[いちむい] の真人[しんにん] あり。常に汝等諸人[なんじらしょにん] の面門[めんもん] より出入す。未だ証拠せざる者は、看[み] よ看よ」という言葉があります。
臨済宗の宗旨は、我々に本来そなわる、この一無位の真人を自覚することです。この臨済禅師の言行録は『臨済録』として伝えられ、語録の王と言われています。

臨済宗建仁寺派大本山 建仁寺

建仁寺は建仁2年(1202年)将軍源頼家が寺域を寄進し臨済宗開祖栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立されました。元号を寺号とし、山号を東山(とうざん)と称します。
創建時は真言・止観の二院を構え天台・密教・禅の三宗兼学の道場として当時の情勢に対応していました。
その後、寛元・康元年間の火災等で境内は荒廃するも、正嘉元年(1258年)東福寺開山円爾弁円(えんにべんえん)が当山に入寺し境内を復興、禅も盛んとなりました。
文永2年(1265年)宋の禅僧、建長寺開山蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が入寺してからは禅の作法、規矩(禅院 の規則)が厳格に行われ純粋に禅の道場となりました。
やがて室町幕府により中国の制度にならった京都五山が制定され、その第三位として厚い保護を受け大いに栄えますが、戦乱と幕府の衰退により再び荒廃します。
ようやく天正年間(1573-1592年)に安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が方丈や仏殿を移築しその復興が始まり、徳川幕府の保護のもと堂塔が再建修築され制度や学問が整備されます。
明治に入り政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派としての分派独立、建仁寺はその大本山となります。
また廃仏毀釈、神仏分離の法難により塔頭の統廃合が行われ、余った土地を政府に上納、境内が半分近く縮小 され現在にいたります。

日本の茶祖栄西禅師

建仁寺開山・栄西禅師が、中国から茶種を持ち帰って日本において栽培を奨励し、喫茶の法を普及された事はあまりにも有名です。
開山以前、我が国に茶樹がなかったわけでも、喫茶の風がなかったわけでもありません。
我が国に茶の種が入ったのは、古く奈良朝時代と思われます。下って平安時代には、貴族・僧侶の上流社会の間 に喫茶の風が愛用されました。
開山が少年時代を過ごされた叡山にも、伝教大師以来、古くから茶との結びつきがありました。この伝統の影響を 受けられた開山が、茶種の招来、喫茶の奨励、いままでごく一部の上流社会だけに限られていた茶を、広く一般 社会にまで拡大されたということができます。喫茶の法の普及と禅宗の伝来とは深い関係がありました。
禅宗僧侶の集団修道生活の規則は、すでに中国において唐代に確立し、これを清規といいます。「清規」とは清浄 なる衆僧の規則という意味で、その清規の中に茶礼・点茶・煎茶や茶についての儀式が多くあります。
特に座禅の際行う茶礼は、眠気覚ましには特効薬的意味もあって、修道にはなくてはならない行事です。
また座禅修行者に限らず、一般の人に対して茶は保健上から良薬であると、茶徳を讃得たのが開山の『喫茶養生 記』です。
上下二巻にわたり、喫茶の法、茶樹の栽培、薬効等茶に関する総合的著述になっています。
そして「茶は養生の仙薬・延齢の妙術である」という巻頭語の所以を詳述しました。
開山は再入宋後、茶種を持ち帰り、筑前の背振山に植えられました。これが「岩上茶」のおこりだといわれます。
また、開山が栂尾の明恵上人に茶種を贈られたことも有名で、「栂尾茶」の始まりといわています。
宇治の茶は、この栂尾から移されたものです。
茶は今日では日本人の日常生活に欠くことのできない飲料であるばかりでなく、茶道の興隆と共に、東洋的精神 の宣揚にも役立っています。建仁寺開山・栄西禅師が日本の茶祖として尊崇されるのはそのためです。

建仁寺塔頭 両足院

両足院は、建仁寺の開山・明庵栄西禅師の法脈・黄龍派を受け継ぐ龍山徳見禅師を開山とする臨済宗建仁寺派の塔頭寺院です。
現在の両足院は、開山当時「知足院」と号していました。知足院は、龍山徳見禅師の遺骨が知足院に葬られてからは、徳見禅師の法脈を継ぐ当院3世文林寿郁の両足院・一庵一麟の霊泉院などの黄龍派寺院の本院でした。
創建された当時の両足院は、知足院の別院、または徒弟院として建仁寺開山堂・護国院の中にありましたが、天文年間の火災の後、「知足院・両足院」両院を併せて「両足院」と称する事となり現在に至ります。

改称に関しては、諸説ありますが、一説として、時の天皇・後奈良天皇の諱名「知仁」に触れた事が原因とされています。
以後両足院は、安土・桃山から江戸時代の8世利峰東鋭の代までは主に、饅頭の祖である林浄因の子孫によって、霊泉院は龍山和尚の生家・千葉氏出身の禅僧たちによって、護持されます。なお、霊泉院は、現在は霊源院と改められて今も存続します。
また江戸初期までは、知足院と霊泉院が輪番で建仁寺開山堂・護国院を守塔していたこともあり、建仁寺開山明庵栄西禅師の直系黄龍派の中心寺院であったことがわかります。

また、両足院は、室町時代中期まで霊源院と共に、「五山文学」の最高峰の寺院でありました。江戸時代に入って も10世雲外東竺など当院の住持が、五山の中で学徳抜群の高僧に与えられ最高の名誉とされる「碩学禄」を授与 されたこともあり、当院は、「建仁寺の学問面」の中核を担いました。
さらに、知足院創建時より明治初期にかけて、歴代住持から数多くの建仁寺住持を輩出し、明治時代の新制度に よる建仁寺派の初代管長を、当院15世荊叟和尚が務めているなど、建仁寺にとって重要な僧侶を擁する寺院という性格も持ち合わせました。

また、上記の東竺・荊叟両和尚に加え、13世高峰東晙と14世嗣堂東緝は天正8年(1537)に始められ幕末まで続く以酊菴に輪住しました。以酊庵とは、長崎の対馬にあった寺院の名前で、朝鮮との通交の役割をしていました。
輪住する和尚は、2年の任期で、五山の中から碩徳のある代表的和尚が勤めており、外交文書の交信、朝鮮通信使 の応接などが任務であり、この任を果たすことは、一代の栄誉でありました。

臨済宗の仏壇の祀り方について

仏壇とは仏をまつるところです。お寺の本堂を小さくしたものと考えることもできますから、
まずは自分の信仰の対象である御本尊を上段中央の須弥壇と呼ばれるところに安置します。
そして、先祖の位牌は御本尊の下の段に祀ります。

お寺に毎日、参拝することはとても難しいです。そこで、お寺に参詣する代わりに自宅に仏壇を安置し、ご本尊をおまつりして礼拝供養することが壇信徒としての心がけなのです。

臨済宗では所定のご本尊は立てていませんので、菩提寺のご本尊か、自分の家が代々まつってきた御本尊でいいのです。

臨済宗の各派では三尊仏(本尊・開山・開基)の像や画軸をまつるよう勧めているところもありますので三尊仏をご本尊としてお祭りするのでもかまいません。

具体的なまつり方は右の通りです。

お墓参りのマナーについて

ご先祖様の命日にはお参りしたいものです。また、一年を通して初詣、春秋の彼岸、お盆、施餓鬼法要の際には、
お寺だけでなくお墓参りにも出かけましょう。

お墓が菩提寺にある場合、まず、本堂にお参りしてから自分のお墓にお参りします。
花以外の供物はお墓参りが終わったら下げて持ち帰るか、その場で参列者と共に食するようにします。

持参するもの
手桶、ひしゃく 寺や管理事務所が貸してくれる場合が多い
花、ローソク、線香、供物、マッチ、雑巾、数珠 掃除道具